[book]番匠
番匠 (ものと人間の文化史 5)
地味な本だが興味深い話がいっぱいあっておもしろかった。
近世以前の建築のデザインを決める割合は施主より大工のほうがずっと大きかったみたい。
工事をめぐる争いが、技術や工費によるものではなく、権威や継続性によるというのも興味深い。
(現代で工事請負を争うのは、いちおう建前としては、コストや技術などによるはず。実態は政治によるところが大きいのだろうが)

以下はメモ。

中世の工匠は、神社などに寄人、神人、供御人などとして仕えた。
たんなる顧客と職人の関係ではなく、権威に対する奉仕とその庇護を必要とした。

中世前期は王朝的な造営制度の衰退と、従来それによって活動してきた工匠たちの勢力の衰退の時期にあたる

中世の建築工事は一般に材料支給で、工匠たちを施主が直接雇用する形式をとる。そこでの工匠指導者の収入は儀式の祝儀に大きく依存する
指導者にとって名目上の地位の獲得に努力を集中する誘因となった。祝儀も金銭だけでなく、馬、衣服、絹布、米など多くのもので構成される。また、工匠の階層ごとに細かく区別されて支給されていた。(馬はまれ。また、もののかわりに銭で支給されることもあった。)

工匠たちの争い
工事の権利をめぐる争いの記録は多い。多くは、権威(だれそれというえらい人からの免状をもっているとか)や
継続性(そこで長年工事にかかわってきたというような)をたてに
自分こそがその工事に参加するべきだ、という訴えとその解決についての記述。
なかには、工匠同士の直接の喧嘩(死人がでるほど激しいものも)の記述もあり。

大工職の成立
大工職はだいくしきと読み、大工所ともいう。
建築工匠が大工としてその職場を確保することのできる権利
中世を通じて徐々に広がった概念。
その権利自体が譲渡や売買の対象にもなる
大和では13世紀末に成立
京都では14世紀末から15世紀
地方の社寺では14世紀
地方の農村では中世後期、村落、鎮守、門前等に大工職の所在を記す資料が多く現れる。
郷村生活の発展によりそれらの工事を根拠として生活を営む工匠たちが現れたことを物語る。

大工職の所有形態はさまざま
・多数の工匠の集団(座)    寺院や神社など大規模工事
・数人の工匠     院家など、中、小規模
・工匠個人の相伝   地方に多い
 (もっとも、こんなにきれいにわりきれるものではないみたいだが)

大工職は農民にとっての土地と同じような役割をもった
それを維持するためには、それを与えてくれる施主に金銭や労役奉仕も必要。
逆に、施主がわから給田をもらうことも多い。

大工職制度と建築表現
大工職制度が未熟で工匠たちの進出、交流の著しい鎌倉から南北朝にかけて創意に満ちた優れた作品が多く大工職が確立した時期の中央の建築界んは古い様式を規格的に模倣し、再生産していくような作品がうまれ、創造性の減退がみられる。
構成員の家系を固定化し、新しい勢力に対して閉鎖的になったためと思われる。

飛騨のたくみ
奈良時代から平安時代前期にかけて、飛騨のくにの農民が労役として里ごとに10人ずつ1年交代で都に上り、
木工寮などの役所に配属されて働いたという史実を下敷きとしてつくられた説話と思われる

中世の工匠の読み書きの程度は低かったと想像される。
 ・工匠の残した文字がほとんどみられない
 ・あっても「見分けがたくいかにもたしかならず」だったらしい
桃山時代以降の工匠は家の秘伝書や系譜をつくるなど読み書きの程度が上がった

技術のひろがり
和様や寝殿造だけでじゅうぶんであった朝廷や社寺に従属してきた中世前期までとは異なり中世後期には各種の建築様式を知識として蓄積することが重要な課題となった

足利義政と工匠
東山時代
銀閣に象徴されるように、義政は豪華な建物を数多く作らせた
義政のお気に入りの工匠に、衛門とその子がいて、「権勢並びなきものなり」
密接な関係を築いていたらしい。
銀閣造営時には東国から多量の材木がはこばれており、その注文や送り状がすこし残っている。
それらから、柱の1本1本にいたるまで細かく見分され選ばれていたことがわかるという。
建築としては、書院造がはじまったころにあたる。棚板や押し板に細密な加工と材料の吟味が必要とされた。
施主が建物にあれこれ注文を出し、高いレベルを要求したことの記録が残っているのはこのあたりかららしい。
(藤原時代にも、貴族が建物全体の表現について批評や指導をおこなうことはあったが、中世後期になると個々の材料までおよぶ細かな注文となったという)

このような施主と工匠の密接な関係があって、やがて茶室建築の洗練された意匠が生み出されることにつながる。

施主と工匠
密接な関係は、すなわち、一蓮托生ということでもある。義政が没後、義政お気に入りの工匠は処罰されている。
中世後期から戦国時代にかけて、全国で権力闘争が盛んになる。ということは、入れ替わりも激しかったわけで有力な社寺や内裏の大工職についても争いが頻発している。
そのとき工匠たちが頼りにしたのは、やはり幕府の権威だった。手を焼いた幕府は1510年に原則としてそのような訴訟を停止し、施主の任意に任せることを法令で命じている。(つまり、それ以前は施主にもどうにもならないことも多かったのか)

建築システムの発展
中世後期から末期にかけては建築システムが発展した時代でもあった
道具
 縦引鋸
 台鉋
 → 精度の向上
組み立て技術
 番付(部材に番号や符号をつけ、その順に組み立てる)
木割
 建築の各部材の寸法の比例関係を組織化し、設計する技術。モジュロール?
図面
 正確な平面図、立面図、断面図が使用され始める
経済面
 請負の萌芽(工事費の概算など。しかし小規模だった。
  大規模な請負が一般化するのは江戸時代から。)
 材木流通
  中世前期には材木商人の座や問丸があった
  山に注文する材と、商品として流通する材を併用して建築がおこなわれた
 分業の進化
  製材の専業化 → 番匠は建築に専念

宣伝?
木割を中心とした設計技術体系をつくりそれを何々流とよんで古くからの秘伝のような外見を与え、自己の技能を権威付けることが近世初期に盛んに行われた。
うーん、「いい家がほしい!」ですな。江戸時代にすでにあったのか。

思想を語ってしまうところも、同じです。
「木工というはなんぞや、思弁を極めずして仏祖不伝の妙を成し、千格の方便を運び、千超越の手段を施す。工夫一看、なんぞ禅の宗旨に異ならん」

様式の折衷、復古、新様式
 この時期の工匠にとっての課題は実に多様だった
 各種建築の間取りや様式について、設計方法、施工方法、彫刻に用いる文様や題材の知識など。

設計
 江戸時代の話になるが
 1619年の鹿島神宮造営では幕府大工頭が現地に赴き、本社から末社にいたるまでの基本設計図をつくり、それを老中会議に提出して着工許可をえたのち、配下の棟梁をあつめて各建物の実施設計図を書かせている。
 精密な設計図が書かれるようになったのも中世末期かららしい。
 設計図の発生により
  大規模で複雑な工事を大人数でより効率的に実施できるようになった
  請負のため、工事内容をあらかじめ正確に把握できるようになった

地方建築界の勃興
 地方の農村に散在する神社建築が著しく成長した
 規模もさまざま
  村人の寄進によりつくられた小規模のもの
  有力武士が願主となった大規模なもの
  大名が領主として造営する領内の主要な神社、寺院
   こういう場合、領内の工匠を動員するだけでなく、京都、奈良から優れた工匠を呼び寄せ指導させることもある。