[book]江戸 玉井哲雄 平凡社 1986年
江戸―失われた都市空間を読む (イメージ・リーディング叢書)

中世江戸から近世江戸へ。
江戸がどのように成立したのか、という問題意識のもとに町割、沽券、表店と裏長屋などの話題を紹介したもの。
ひとくちに江戸といってもいろいろあるんだよ、という話。もとは月刊百科の記事をあつめたもの。
町や建物がつくられる契機についての記述が多いのが楽しい。
・中世江戸から近世江戸に転換するにあたって諸大名を動員しての大規模な工事が30年以上も続いた
・しかしそれが実際のところどのように行われたのかはよくわかっていない
・近世江戸は中世江戸を継承しつついくつかの段階を経て建設された。為政者の周到な計画によって一気にできあがったというものではない
・開発の最前線としての寺地
 江戸町が領域を拡大するのに、海に向かっては埋め立て、陸においては街道をまず通しその街道沿いの土地を町にとりこむという方法をとった
 そうした町の周辺部に寺町がある。これは寺をつくるとともに土地を造成し、町をつくったことを意味する。
 そして次の拡大期にはここが町となり寺は再び周辺部に移動する。
 (土木技術者の集団を抱えた寺院勢力が都市周辺の未開地を開発することにより布教の根拠地とすることは中世では一般的なことだった。)
・近世初期の江戸の町家は突出した大店はまだなく、似たような零細間口の長屋店舗が並んでいた
 ひとつの町屋敷の表側を数人の問屋で共同所有し町家の普請も共同で行っている
 経済が発展するにつれ、零細規模の職人や商人が独立して表通りの独立店舗を持つようになったという図式が考えられる
 (近世中/後期には表長屋は姿を消す)
・そのような長屋店舗の土地は、といえば
 領主徳川氏の伝馬、鉄砲、紺屋、大工などさまざまな形の御用を国役という形で請け負った商人司、職人頭がその見返りとして土地を拝領したもの。
 親方たちは、配下のものに屋敷地を分配して住まわせた。
 (配下のものが独立するにつれ、土地の売買が生じるようになった。経済が発展するにつれ、商人の規模にも格差が生じ、土地価格にも差がつくようになった)
・町割は誰が行ったのか
 決め手はないがいくつか説がる。
 地割奉行 板倉勝重
 豪商 茶屋四郎次郎清延
 金座 後藤庄三郎
 大工 中井大和守正清
 いずれにせよ、上方の事情に通じていた技術に詳しい徳川家臣あるいは側近が上方の建築・土木技術者を連れて江戸建設をおこなった
・幕府の大工頭のエピソード
 18世紀はじめ、(新井白石のころ)さまざまに幕府の機構が改められた
 大工頭に、被官大工がとりたてられ、それまで代々世襲していた家が脱落した。
 本来は職人を掌握し技術を持っていた家が事務官僚化し、新しい工事に対応できなくなり、本来は小工事を行う小普請方によって作事方の仕事が奪われるようになったという背景がある
・表屋敷と裏長屋
 地主は敷地を買い、家守を雇って管理させ、敷地を分割して借地人に貸し地代をとり、長屋をたて店子から店賃をとる。
 そのさい、どの敷地でもどの地主でも、敷地の配分のしかた、使い方がほぼおなじ。
 通りに面した奥行き5間の表坪、その奥には裏長屋。井戸、共同便所、芥溜の配置までほぼ類型化していて、間口が決まればほぼ配置も決まる
 (このようなかたちが一般化するのは18世紀はじめ以降で、経済発展とともに大地主が発生し、それらによる町屋敷経営がおこなわれるようになってから)

つまり、当時、町家をたてるのは地主とそれを請け負う大工。
そのとき考えたことは経営のことであって、家のつくりなどは慣例に従えばよいのだった。(様々な禁令、技術、コストの制約により従わざるをえなかったというほうがよいか。)
住む側の店子にとっても家のつくりなどはあるがままにうけいれるしかないというか、おそらくはそんなこと考えもしなかった。