アメリカ大都市の死と生

アメリカ大都市の死と生 (SD選書 118)
都市計画の分野ではすでに古典らしい。原著(Jane Jacobs, "The Death and life of great american cities")は1961年、訳は1969年。黒川紀章訳。ただし、原著は4部まであるが訳書は前半の2部のみである。
amazonの紹介では

ハワード、ル・コルビュジエにつづく近代的オーソドックスな都市計画と都市再開発の理論を攻撃し、アメリカ大都市の近隣築を自ら探り、街路の多様性などから新しい都市計画の原理を求める。

となっている。60年代。近代への異議申し立てが吹き荒れていた時代。今ではすっかりキザなオジサマという印象の黒川も若き異義申し立て者のひとりだったのかな。
(あとがきで自ら「自分が適切な訳者だったかわからない」と書いているくらいで訳文はいまいち読みにくい。もっとも、全般的に翻訳のレベルが低かったのだし、かえって時代が感じられる。)
なんでいまさら読もうと思ったか。
・ボボズで言及されていてい興味をひかれた
・たぶん、現代でも有効な考え方に出会えそう
・現代にどのくらい反映されているのか知りたい。(ボボズによれば現実化している例がたくさんあるというのだが。)日本ではどうなんだろう。
といったところ。
ちなみに、
アメリカ大都市の死と生」で検索すると面白いページがいくつもヒットする。
たとえば、
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本書の主題

非常に入り組んだ密度の高い多様な活用能力を持った都市の必要性

この手の本を読むときに前提となるのは
都市とは貧しく不潔で犯罪の温床になるところ。要するにスラム。まともな人はとっとと郊外へと逃げ出し、移民や犯罪者などまともではない貧しい人間があつまってくるところ。あげくのはてには誰もが逃げ出し、廃墟と化すところ。
という都市観があるということだ。実際、アメリカではこういうダイナミズムが今でも働きつづけている。
それに対して、スラムを一掃して美しい街区をつくるという都市計画の視点と、住民によりそって改善をはかるソーシャルワーカーの視点とが対立する。

前者はブルジョアの視点であり、後者はボヘミアン的である。その対立はボボズの台頭により融合がはかられ、魅力的な街−ラテタウン−があちこちにできた。その街づくりの理念的バックボーンとなっているのがたとえば本書である、というのがボボズに書いてあったこと。
(ボボズは半分は冗談で書かれた本であることを忘れてはいけないのだが。)

さて、

近代的オーソドックスな都市計画と都市再開発の理論を攻撃し、

ってどんなことかな、と思いながら読んでいたら、まあ、この本全体がそういうトーンといえばいえるのだが、端的に次のような文があった。

ハワードの目的は自給自足の小さな町をつくることであったのだが、もしあなたが従順な人間で、あなた自身の計画というものをもたず、自分自身の計画をもっていない同じようなひとたちのなかで生活するのを何も気にかけないような人だったら、この町は全くとてもすばらしい町だったろう。

なるほど、ボボズとは対極にある人たちのことですな。

歩道の用途-安全性
まず、ここから話がはじまるところがアメリカらしいというか。うっかりしていると都市はすぐに犯罪の温床になってしまうという現実があるので、住民の安全を保つためにはどんな街にしたらいいのか、という視点から話ははじまる。
どんな方法があるのか。自己責任だからとほっておくのもひとつの手か。車を使いなさい、危険な街など歩くところではありません、というか。縄張りを決めて街区を高い塀で囲いよそ者が入らないようにしてトラブルを防ぐか。
そのどれでもなく、著者は通りの力を信じなさいと言う。

私たちの町には、町の秩序をつくりあげているありがたい住民たちが大ぜい住んでおり、皆の目が常に通りに注がれているために、比較的容易に町の平和が保たれているのである。

うむむ。いまいち説得力を感じない。

歩道の用途-接触
なぜ、公民館のような「人が集まるよう計画された場所」には実際人が集まらず、路地とかソーダ売り場みたいなところには集まるのか。それはプライバシーの問題だという。「計画された場所」にはプライバシーがないらしい。
では都市のプライバシーと、先に述べられたような「皆の目が注がれている」こととがどう両立するのか。
著者はそれを「驚くべきバランス」といっている。なぜ成立するのかわからないが、ともかく成立しているんだというような。
うーむ、それはそうかもしれんが。
しかし、ここに述べられている「グロッサリーのおじさんに部屋のかぎをあずけておく」なんていう習慣はいつごろまであったのかな。文化の違いとはいえ。(日本の場合だったら、昔は普通の家は昼間はカギなんてかけなかったわけだが。)